こんにちは。静観です。
私は、この世はリアルな仮想空間のようなものだと思うことがあります。
少し変な言い方かもしれません。
でも、生きていると本当にそう感じることがあります。
目の前に起きる出来事。
思い通りにいかないこと。
人との小さなすれ違い。
予定外のこと。
突然出てくる壁。
それらを全部「問題」として見ると、人生はかなり重たくなります。
でも、少し視点を変えると、それは問題というより、ただ目の前に出てきた場面なのかもしれません。
ゲームでいえば、ステージです。
敵が出てくる。
壁がある。
道がふさがっている。
思っていた方向へ進めない。
でも、それがあるからゲームになります。
問題が起きたから人生が止まるのではなく、問題だと思う出来事をどう味わうかで、人生の見え方が変わる。
私は、そんなふうに思っています。
問題は、問題として見た瞬間に重たくなる
何かが起きたとき、人はすぐに意味をつけます。
これは嫌なことだ。
これは損をした。
これは失敗だ。
これは問題だ。
これは面倒なことになった。
そうやって意味をつけた瞬間に、心が重たくなります。
もちろん、本当に大変なこともあります。
軽く考えれば済むことばかりではありません。
ただ、日常の中で起きる小さな出来事の多くは、見方を変えるだけで少し軽くなることがあります。
思い通りにいかなかった。
でも、そのおかげで気づいたことがある。
予定が変わった。
でも、いつもと違う景色を見られた。
嫌だなと思った。
でも、自分が何を苦手にしているのかがわかった。
こういうことは、けっこうあります。
出来事そのものよりも、それをどう解釈するかのほうが、自分の現実を強く作っている。
ここに気づくと、目の前の問題は少し違って見えてきます。
ベランダでコーヒーを飲むだけの話
ある日、一緒に暮らしている人から、
「2階のベランダでコーヒーを飲まないの?」
と言われました。
私は、そのときこたつでゆっくりしようと思っていました。
正直、ベランダに行くのは少し面倒でした。
でも、顔を見ると、どうやらベランダに出たほうが気持ちいいのにな、と思っているような表情をしていました。
そこで私は、あまり何も言わずに、コーヒーを持って2階のベランダに行きました。
すると、いつもと違う景色がありました。
10メートルも離れていない場所で、大工工事が行われていたんです。
ちょうど職人さんたちが10時の中休憩をしていて、仲間同士で楽しそうに話をしていました。
向こうからもこちらが見える。
こちらからも向こうが見える。
顔の表情も、声も、何となく届く。
静かにコーヒーを飲むつもりだったのに、ぜんぜん静かではない。
そのとき、私は思いました。
「ね。そういうこと」
これは、言葉で説明するより、実際に味わったほうが早い場面でした。
ベランダでコーヒーを飲めば気持ちいい。
でも、現実にはいつも理想通りのベランダがあるわけではない。
そこに工事の音がある日もある。
人の声がある日もある。
落ち着かない空気がある日もある。
でも、それを「台無し」と見るのか、「これはこれで面白い」と見るのか。
そこに、その人の心の置き方が出ます。
目の前に起きたことを、そのまま受け入れて少し遊んでみる。
この感覚は、けっこう大事だと思っています。
楽しまないことが、一番もったいない
人生で一番もったいないのは、何かが起きたときに、ただ嫌がって終わることかもしれません。
もちろん、つらいことを無理に笑えという話ではありません。
でも、小さな出来事まで全部「問題」にしてしまうと、ずっと心が休まりません。
人は、自分の解釈で苦しむことがあります。
「なんでこんなことが起きるんだ」
「また邪魔された」
「思い通りにいかない」
「自分だけうまくいかない」
そう考えると、目の前の出来事がどんどん重たくなります。
でも、
「こう来たか」
「なるほど、今日はそういう日か」
「これはこれで、何かの材料になるかもしれない」
「あとで文章にできそうだな」
こんなふうに見ると、少しだけ軽くなります。
私は、発信をしているので、日常の中で起きたことをよく材料として見ます。
何もない日でも、何かを感じている。
小さな違和感でも、書いてみると記事になる。
どうでもいい出来事でも、そこに自分の考え方が出る。
そう考えると、問題だと思った出来事さえ、自分の発信の種になります。
ひとりで仕事をする人に、正解は用意されていない
ひとりで起業していると、正解がないことばかりです。
これをやれば必ずうまくいく。
この順番なら間違いない。
この商品なら絶対に売れる。
この発信なら必ず読まれる。
そんな保証はありません。
雇われている場合は、与えられた仕事をこなすことで給料をもらえることが多いです。
でも、ひとり起業は違います。
自分で考えて、自分で出して、自分で届けて、自分で受け止める必要があります。
だから、不安になるのも自然です。
このままでいいのか。
これを続けて意味があるのか。
自分の発信は届くのか。
今まで通りやって報われるのか。
そう思う日もあります。
でも、そもそもひとり起業というのは、最初からそういう場所だったはずです。
答えがない場所で、自分の感覚を頼りに進んでいく。
これが、ひとりで仕事をするということだと思います。
だから、目の前に変化が来ても、必要以上に怖がらなくていい。
道具が変わっても、時代が変わっても、自分が考えていることを出し続けることはできます。
むしろ、ひとりで発信している人にとって大事なのは、そこです。
自分の考えていることを出し続ける
文章で飯を食う人。
発信で仕事を作る人。
コンテンツを作って届ける人。
こういう人にとって大事なのは、自分の考えていることを出し続けることです。
すごく立派なことを書かなくてもいい。
毎回、役に立つ記事でなくてもいい。
きれいにまとまりすぎていなくてもいい。
ただ、自分の目の前に起きたことをどう見たのか。
そこから何を感じたのか。
どんなふうに受け取ったのか。
それを出し続けることです。
発信は、正解を発表する場所ではなく、自分の見え方を置いておく場所でもあります。
だから、日常の小さな出来事も大切です。
ベランダでコーヒーを飲もうとしたら、近くで工事をしていた。
ただそれだけの話でも、そこから考えられることがあります。
思い通りの静かな時間ではなかった。
でも、その場面があったから、目の前の出来事をどう見るかを考えた。
そういうものが、発信の種になります。
問題をなくすより、問題の見方を変える
人は、問題をなくそうとします。
もちろん、解決できる問題は解決したほうがいいです。
お金の問題。
健康の問題。
人間関係の問題。
仕事の問題。
放置していいわけではありません。
ただ、問題を全部なくしてから幸せになろうとすると、たぶんいつまでも幸せになれません。
なぜなら、生きている限り、何かしら起きるからです。
ひとつ解決したら、また別のことが出てくる。
今日うまくいっても、明日は別のことが起きる。
静かに暮らしたくても、外では工事が始まる。
そんなものです。
だから、問題をなくすことだけを目的にするより、問題との付き合い方を変えたほうが楽になります。
これは問題なのか。
それとも、ただ起きている現象なのか。
自分はそこに、どんな意味をつけているのか。
これをどう遊べるのか。
そう考えると、少しだけ余白が生まれます。
問題は、問題そのものよりも、自分がそれをどう見ているかで重さが変わる。
ここを忘れないようにしたいです。
今この目の前をどう解釈して生きるか
人は最後には、みんな同じところへ向かいます。
だからといって、投げやりに生きるという意味ではありません。
むしろ逆です。
限りがあるからこそ、今この目の前をどう解釈して生きるかが大事になります。
嫌なこととして受け取るのか。
面白い出来事として受け取るのか。
学びとして見るのか。
発信の種として見るのか。
ただの現象として通り過ぎるのか。
どれを選ぶかで、同じ一日でもまったく違って見えます。
この世が本当に仮想空間なのかどうかは、私にはわかりません。
でも、ゲームのように見てみると、少し楽になることがあります。
壁がある。
予定外のことが起きる。
思い通りにいかない。
人と考え方が違う。
静かにしたい日に、近くで工事が始まる。
それでも、自分はどう動くのか。
そこに、自分の生き方が出ます。
問題は問題ではない。
そう言い切るのは、少し強いかもしれません。
でも、少なくとも、問題だと思っていたものが、あとから見るとただの場面だったということはあります。
だから、私は目の前に起きることを、できるだけ面白がって見ていたいです。
そのほうが、たぶん楽です。
そして、そのほうが発信も続きます。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。
感謝。













